会葬のマナー☆死と葬送

死と葬送(弔う心をたいせつに)

~形式よりも弔う心をたいせつに~

 死は人間にとって避けることのできない現実です。これをどのように考え、対処するかは民族を問わず重大な問題ですが、その最も具体的な表現は、諸民族の持つ葬法にあるといわれています。
 それはむずかしい理論や哲学とは無関係の、生活態度や行動を通しての霊魂観、世界観、人間観をあらわすもので、そこには各民族それぞれの生活環境や様式、信仰形態などに応じて、さまざまな変化と複合を見せています。
 単一民族とされている日本においても、地域による生活様式や環境、伝承などによって、さまざまな形が見られ、今もその片鱗を残す地方も少なくありません。

~日本の葬送の形の変遷~

 ところで日本では、古くは土葬が中心でした。火葬が始められたのは文武天皇(700年)のときで、天皇では、41代の持統天皇の火葬が初めてのものであったといわれています。
 また、仏式葬送が行われるようになったのは、平安朝以降とされ、江戸時代には、神葬は神官の家柄だけに許されていたといわれます。
 神道(しんとう)では、死をけがれとして忌む考えが強く、神に仕える神官が葬儀にたずさわることは、明治になってからも、その年の15年に内務省通達で制限しており、神社の神官が葬儀をつかさどるようになったのは、ごく近年の、大正以降のことです。したがって、庶民の葬送は、自然に仏式が多くなり、墓も寺に付随するような形になっていったというわけです。
 しかしその反面、儒者(孔子を祖として、四書五経を経典として学ぶ中国の伝統的な政経一致の学問を修めた人)の中には、仏教によって死を弔われることをあきたらず、儒者独自の葬送も行われていました。
 そして明治から大正にかけて、宗教による葬送の種類がふえるにつれて、この儒者の家筋が神社による神葬を好み、それが今日の神道の人々であるようです。
 キリスト教の葬送が行われるようになったのも、明治から大正にかけてで、このキリスト教葬の影響から、供花、花輪などの風習もあらわれてきました。葬儀社ができたのは明治20年ごろで、葬儀に必要な道具類の調達から埋葬まで、ほとんどすべて代行されるようになりました。
 また、埋・火葬が、死後24時間を経過しなければ行えない、という規則は明治17年の公布で、これは今日にも生きている規則です。

~葬送は霊魂を守り導くため~

 このように、日本における埋葬について考えてみますと、今日に見られるような宗教的要素の濃い葬送は、そう古くからのものではないように思われます。
 つまり、「肉体は時の経過とともにしだいに腐敗し、消滅していくが、霊魂は聖なるものとして祖霊と一体となっていく」という信仰が根元なのではないでしょうか。そして死のあとにつづく葬送の儀礼は、霊魂が落ち着くところに落ち着くように、残された周囲の者が守り導いていこうという心なのでしょう。
 前にも書きましたが、日本の葬送のあり方は、宗教的な違いはあっても、その根元は生きることを支える、さまざまな条件から自然発生した民族的信仰にあって、そこに種々の要素が加わって、形成されてきた葬送という感じがします。
 そして、だからこそ人々の心にルーツを求める気持ちが強く、やはり人生の重要な儀礼である婚よりも、しきたり、習慣にとらわれやすい葬の儀礼では、ほとんどすべての人々が、宗教に頼ることになるのではないでしょうか。
 いずれにしても私たちの葬法は、それぞれの地域で大なり小なり伝承され、その土地の葬儀の形として継承されてきたのですが、それもここ数十年間の社会生活の大きな変化に伴って、急テンポで変わってきつつあるようです。そして、どちらかといえば、形にとらわれて心が忘れられているように思われます。
 しかし、死は人間にとって平等のもの。私たちは、しきたり、習慣の形だけを気にするのではなく、その中にある死を弔う心を読みとって、今日の葬送に生かしていくことを考えなければならないのではないでしょうか。

~かつての通夜は近親者のみで行われた~

 通夜は喪屋生活の遺風の1つで、本来、近親者だけの務めであったといわれています。兵庫県の北部では、近年まで、夫が死ねば妻、妻が死ねば夫、親が死ねば子が、一晩死体と1つの布団に寝るのがならわしで、これに似た習慣は八丈島の一部にも見られ、親の葬式を出したその晩は、長男は死者の寝ていた布団で寝る習慣であったといわれています。
 こうした習慣は、今日の感覚では理解できにくいことかもしれませんが、喪屋というのは、死者の近親者がある期間、遺体といっしょに生活する場のことで、これは忌(い)みがかりになる近親者が、死者とこもることで、死のけがれを他に及ぼさないとする考え方です。
 近年では、通夜には忌みのかからぬ者、つまり友人、知人、近隣の人々も出向いたほうがよい、というような考え方になってきていますが、それは、死をけがれとする観念も薄らいできていることや、人情として、今生の別れを惜しみ、遺族を慰める、との気持ちが強くなってきているため、といえるでしょう。
 また、喪家の火はけがれている、とする忌(い)み火(び)の習慣から、通夜にはその家の火で作られたものは口にしないとする地方も広く分布し、かつては通夜には自家から握りめしなどを持っていくというところもありました。

~今も伝承どおりの葬儀を行うことろがある~

 土葬が行われている地方は今もまだ、かなりあります。福島県の田村郡地方は現在も土葬で、葬儀の形態にも古くからの伝承が見られます。
 今では、葬儀のあとに告別式が行われるのが一般的ですが、この地方では告別式が先に行われ、その形は酒も出る昼食を喪家で共食するもので、このあと出棺、お寺での葬儀となります。
 まず親戚総代が、親戚一人一人の役割を読み上げ、それに従って、位牌は喪主が持ち、写真やそれまで遺体に供えていたものなどをそれぞれ持つわけですが、このとき、白いさらし布を各自くびにかけるのがしきたりです。
 棺の四隅(よすみ)には禅の綱という白さらしの綱を縛って長く結わえ、親類の者すべてが持ち、お寺まで歩いて遺体を運びます。
 こうしてお寺に着くと、持ってきたものすべてを飾って葬儀を行い、その間に、頼んでおいて人々に土葬の穴を掘ってもらう、ということなります。
 葬儀が終わってお寺から墓地に遺体を運ぶとき、棺をぐるぐると8回転させるのもしきたりだそうで、これは108の煩悩を断ち、悟りの境地に入るという、仏教の考え方に由来しているようです。こうして埋葬がすむと、会葬者は再びお寺に戻り、簡単なふるまいがあって、初七日と三十五日の読経をいっしょにしてもらい、お寺に持っていったものすべて、お寺に置いて帰り、喪家で再び、膳が出るという段取りです。
 この例に見るように、くびに白いさらしをかけるというのは、白装束の名残りと考えられ、富山県などでも、ごく近親者は白装束で棺をかついだとの記録もあります。
 また日本では、着衣の色として白が最も格が高いものとされ、古くは慶弔を問わず、礼装は白でした。前述の富山県下では、親類の男子は明治のころまで肩衣(かたぎぬ)に袴をはき、今でも、紋つき、羽織で、輪げさをかける習慣だということです。
 また『北中部の衣と食』(明玄書房刊)によると、北中部のある地域での女性の葬儀の服装は、白無垢または黒紋つき、脚絆(きゃはん)、白足袋、カズキ(カツギ)または白手ぬぐいをかぶる、とあります。
 カツギは嫁入りのときに実家からもらってくるものだったようで、そのカツギはナミダカクシともいうとか。髪についても、元結いを髪の毛で隠すという習慣があり、新潟市山ノ下あたりでは、葬儀のときは、丸まげはいけないとし、南魚沼郡六日町ではツブシ島田に結って忌中まげともいったそうです。

~故人との別れに食事をともにする風習が多い~

 葬儀の前後のしきたりや作法には、こまかい部分で地方的習慣の違いが多く見られますが、北中部とは遠く離れた九州地方にも、似たような習慣が見られます。
 それは葬儀の前の共食ですが、熊本市の一部では、葬儀が始まる前、霊前に供えた膳と同じ膳を、故人と血のつながりの濃い順から席に着いて食べ、故人との最後の午餐を共食する、ということが今も行われているのです。
 出席している親戚は六親等までで、この膳に着き、一口でも箸をつけなければいけないとされています。
 現在、熊本市では火葬が行われ、この故人との別れの食事のあと、普通に葬儀、告別式が行われるようになっていますが、かつては福島県の場合のように、共食のあと、埋葬地で葬儀を行って、土葬にしていたのかもしれません。
 多少順序の違いはあるにせよ、出棺前のあわただしさのうちに飯を食べるという、ちょっとうなずけないようなことがあるのは、福島県や熊本県に限らず、全国的な風習でもあったようです。
 近親の者たちが、死者と永遠の別れを告げるために共食したのも共通しており、伊豆の神津島などでは、この飯を食べると、以後7日間は葬家にとどまって、忌の生活をしていたといわれます。

~日本では土葬が基本的葬法だった~

 日本では火葬の歴史もかなり古く、700年ごろから行われていますが、やはり土葬が基本的葬法で、土葬時代の名残りが少なくありません。
 福岡県の一部で今も行われていることですが、火葬のあとすぐに墓地に埋葬する風習もその一つで、遺体を何日も置くわけにはいかなかった土葬時代の形が、火葬になった今もつづけられているものと思われます。
 葬儀のあと、火葬場まで遺族と親族、隣組の人々で行列を組み、遺体を徒歩で運んで火葬にし、今度は遺骨を輿(こし)に乗せて墓地に運び、埋葬するわけです。
 そしてこのときの服装は、遺族の男子は裃(かみしも)でしたが、今では紋服(礼服)となっています。
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~霊魂が帰るのを妨げるさまざまな風習~

 葬送は遺体ばかりでなく、その霊魂も送る儀式との考え方から、死者の霊魂が、再び帰り来るのを妨げようとする行事もさまざまな形で全国的に分布しています。
 今でも各地で行われている風習に、出棺後に死者が常用した茶わんを割る、ということがありますが、これは食物の縁を断ち切ることによって、霊が再び戻るのを妨げる呪術と、解釈されているようです。
 また同じような意味で、出棺を普通の出入り口を使わず、土間の壁の一部を破ってそこから棺を出し、すぐそのあとをふさぐ習慣のところもありましたし、棺の出たあとすぐに掃き出したり、跡火を断ったりするところもありました。
 それから興味深いのは、葬送の道順に、神社や聖地の前を通るのを避けるように努め、通らなければならない場合には、それらの前面に塚を築いたり、竹を組んだりして、清浄の区域をさえぎったといわれる風習です。
 現代でも死者が出ると、神棚や仏壇の扉を閉じ、白紙をはったりしますが、これは死をけがれとする理由によるもので、その観念も薄れてしまった現代人たちにも、形だけは受け継がれています。
 ところで、今も、島や海辺にまだ残っているといわれる「泣(な)き女(おんな)」の風習も、やはり霊魂の帰らざることを願うものなのかどうか……。泣き女は葬儀のときに儀礼として号泣する女性のことで、「トムライババ」とか「ナキババ」などと呼ばれ、半職業的にこれを務める女性がいました。
 また、親戚、近隣の女性たちが泣き女を務める地方(壱岐、伊豆の島々)もあって、これらの地方では、泣きながら言う言葉も決まっていたそうです。かつては布施米の量によって、五号泣きとか一升泣きなどといわれ、泣き方や死者を思う言葉の唱え方を変えるようなこともあった、ということで、いろいろな風習があるものです。
 また武家の葬儀には、女性はいっさい参加させず、ただ飯持(めしもち)(給仕人)と泣き女を雇って参列させるところもあったそうです。








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Author:マナーマスター
年を重ねると冠婚葬祭にまつわる、儀式や行事に参加することが多くなりますよね。でも、今さら恥ずかしくて人に聞けないこともあります。葬儀に参列したはいいが、お焼香ってどうするんだっけ?など。 食事のテーブルマナーについても参考にしてください。